2013年4月25日木曜日

ミスター資本主義


「問題は、その問題を生み出した考え方と同じ考え方をしているうちは解けない」
アインシュタイン

私たちの直面する問題の本質は、対象となっている現象そのものにあるのではなく、対象をみるにあたって認識の前提にしてしまっている観念に起因します。この意識の前提は、フレームワーク、世界観、あるいは既存パラダイムなどと述べられたり、ニール著の『神との対話』においては、「思考を支える思考」と表現されています。

人間社会という現象は、それを生じさせる主役を振る舞うのも、観察するのも、人間です。現象そのものであると同時に、基準点でもある私たちは、「問題となる現象が、客観的な法則に従って繰り返し生じているのか」 「基準である自分らがパラダイムに固執して動いているから、問題の現象が繰り返し再現されてしまっているのか」が極めて曖昧になります。基準点自身が動くと、すべての景色が動く。このシンプルな事実が、自分が自分を知ることの最も困難な理由であり、人間社会という現象を人間社会の観念で捉えることが極めて難しい所以です。

アインシュタインはこれを見抜いていました。観測者の視点(観測者という現象)次第で、時間も速度も変わる。エネルギーや質量についても変わる。であるならばいっそのこと、人間ではなく光の速度を基準にした方がいい。光速ならば、広大な宇宙の現象と身近な地球の現象を、統一して捉えることができて合理的である。以下は自らの研究を通じて、そのような結論に至ったことを実感しつつ出た名言だったのでしょう。
"We can't solve problems by using the same kind of thinking we used when we created them"

「私たちは、問題を生み出してしまっている時と同じ思考を通じて問題を捉えているが、その思考のレベルでは問題を解決できないのだ。」

問題を認識するフレームワークに、問題を生じさせるメカニズムが既に内包されているわけです。それに気付けていないことが、真の問題だということです。
例えば経済問題について考えるとき、政策や制度設計は、アダムスミスやケインズ等の経済学が根底にあります。経済現象が議論されるときには、経済の見方を支配している価値観(パラダイム)が既に前提されています。これがお金の観念を規定し、規定された観念に基づいて人々が意識と行動を形成していく。人間社会の現象は、特定の観念に固執しているゆえに一定の再現性をもって起きる、ということが頻繁に起きる。「現象があって、それを観測する」ではなく、「認識があって、現象を生じさせて、それを観測して認識を深めてしまう」ということです。

経済学は、社会現象に対して科学的な検証と理論で成り立つようにみえますが、実は行動と認識の前提となるパラダイムを提供するから、その枠組みに沿って経済現象が実現する、という方が一般的なのかもしれません。インフレ期待がインフレを実現するというアベノミクスの論調が象徴している気がします。

経済は人間集団が観測者であると同時に観測対象でもあります。このシンプルな事実を明確に自覚すると、経済合理性の実現は、観測可能な合理性を数量のコントロールで追うよりも、人々の行動の前提をつくっている世界観の合理性を問い直すこと、そして示すことの方が遥かに建設的であろうと僕には思えます。

オーストラリアの経済学者クライブ・ハミルトンは、彼の著書『経済成長神話からの脱却』で、次のように述べています。
経済成長の有益性は自明のこととされているので、経済学の教科書でそれのどこが有益なのか調べようとしても簡単にはいかない。どこでもいいから大学の教科書を開いてみれば分かるが、経済学の定義としていきなり、わずかな資源で無限の欲求に対してできるだけ大きな満足をもたらすにはどうすればいいかを研究するものだと書いてある。ここでは「欲求」は消費によって満たされるものだとされ、教科書の前半はもっぱら、消費者が自身の「幸福」を最大化しようとする行動の分析に当てられる。本来は人間だったものがいつの間にか「消費者」にされ、人間の欲求は商品によって定義されてしまっている。これに続けて、人間を最も幸せにできる唯一の方法は、より多くの商品を提供することだと書いてある筈だ。いいかえれば、目的は経済成長だということになる。教科書の後半はマクロ経済の話だろう。こちらの目的は要するに、政府がどのように経済を管理すれば、やがて成長率を最大にできるかを理解することにある。

経済成長と幸福は関係がないと僕は思うのですが、政治経済の議論の前提は、人の幸福は消費の量的な増加関数であるということです。このまま幸福な経済とは何かを理解(定義)しなければ、お金の総量と流量を増やすことを延々と続けることになります。世界では25000人が日々餓死していますが、私たち日本人は食料を6000万トンを輸入する一方で2000万トンを廃棄しています。それを見て、寄付やボランティアや社会起業家という対症はなされても、「市場競争は合理的だ」という前提の枠組みを変える気配は感じません。なぜでしょうか。

この説明としては、個々人のお金の獲得競争を通じて、お金の総量と流量を増大していかなければ、あまりに多くの人にとって目の前の生活が破綻してしまうからではないでしょうか。あらゆる業界で、全体としてみたらおかしいが・・・という、そんな事例に溢れていると思うのですが、それでも「市場を通じた公正な競争は合理的である」という第一前提を私たちは変えられません。既存の枠組みが支える、既存のお金の流れに精神的に依存すれば、既存の枠組みの根拠である正当性と真っ向から向き合えなくなってしまいます。だからではないでしょうか。返せるはずもない国債残高をみて、もうどうにもならなくて、返すという前提すら議論しなくなった政治家。それを見ても何も感じない国民。政治家、国民、納税者・・・という言葉で流れているお金に、人の真実はどれほど込められているのでしょうか。そのお金の流れに、共同体に依存ではなく貢献しようとする社会奉仕の精神は、一体どれほど残っているというのでしょうか。

消費者、労働者、経営者、資本家(貯蓄・保険・投資)、国民(納税)・・・あらゆる役割パターンが強固に結びついて、お金の観念は人間性と内的に同化してしまっているようです。(もちろんお金は人間関係が生じさせているので、もともと人間の内的な存在が顕れたものですが、ベクトルが逆になってきているということです)
お金の総量と流量の増加を推進しつづけることは、個人の生活から国家社会の存続、世界経済システムに至るまで、もはや有無を言わさない反応として肯定されているように僕には見えます。買い物からアベノミクスのニュースに至るまで、お金の流れの質を問う余裕はなく、量に反応している。個人、企業、自治体、国家、あらゆる経済主体がお金の使い手、貸し手、借り手として振舞うことを「本当の目的」よりも優先する結果、相互に影響しあいつつ、結局はお金の量の動きが現実を象り続けているのでしょう。



ミスターマーケットの寓話はご存知でしょうか。世界で最も成功している投資家ウォーレン・バフェットが、資本市場と向き合う心構えとして面白い話を紹介しています。

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私の友であり師でもあるベン・グレアムは、投資で成功するためには市場の変動に対する心構えがもっとも大切な要素であるとかつて言ったことがありますが、私もそう信じています。

彼が言ったのは「市場の値付けというのは、あなたの個人事業のパートナーである、ミスター・マーケットという名の非常に世話好きな男によってなされたものだと考えなさい」という言葉です。ミスター・マーケットは必ずや毎日現れて値付けをして、その価格で、あなたの持ち株を買うか、彼の持ち株をあなたが買うのです。

たとえあなたたち二人に介在する企業が安定した財政状況にあったとしても、ミスター・マーケットの値付けはそれをきちんと反映しません。悲しいかな、彼は気の毒なことに矯正不能の感情的問題を抱えているからです。時としてやたらと上機嫌になり、企業にとって好ましい要素しか見えなくなってしまいます。そういう気分のときには非常に高い売買価格を付けます。あなたが彼の持ち株をひったくり、かれからささやかな含み益を奪い取ってしまうのを恐れてのことです。また時として彼は落ち込んで、企業と世界の先行きに暗雲しか見えなくなってしまいます。そういうとき彼は、あなたが持ち株を自分に対して大量に売ってくるのではないかとおびえて、非常に低い価格を付けます。

ミスター・マーケットはあなたの助けをすることはあっても、あなたを手引きすることはありません。あなたが役立てることができるのは、彼の知恵ではなく資力なのです。もしある日、彼が目立っておどけた調子で現れたら、彼を無視するのもいいですし、あるいはその状況に付け込むのも一案です。だがもし彼の手に落ちてしまえば悲惨な目に遭うでしょう。

ミスター・マーケットよりはるかに企業の価値評価に長けているという自信があなたにないのなら、真の意味でゲームに参加しているとはいえないでしょう。「30分以上ゲームに参加していて誰がカモか分からなければ、あなたがカモなのだ」とポーカーでいうように。

(『バフェットからの手紙』パンローリング刊)
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ミスターマーケットという言葉は、莫大な資力を有する気まぐれな資本市場を擬人化しているんですね。資本市場を相手に投資ビジネスに臨むなら、証券の価値を見抜く知性と強い信念が自らになければ、相場の楽観と悲観に心が振り回されて大損をすることになります。市場を明確にパートナーとして尊重しながらも、彼の価値判断を信用せず、当てにするべきは彼のお金であり、知性は上回っていなければならない、という意味です。この心構えは僕の証券会社勤務の経験からしても実感するところです。

そんなバフェットだからこそ、サブプライム・ショックからリーマン・ブラザーズが破綻し、ベアー・スターンズとメリルリンチが他銀行に捨値で売られるような金融危機の中で、ゴールドマンサックスをほぼ底値で買い支えて莫大な利益を得ることができたわけです。

その救済の際に引き出した条件は、配当利回り10%の永久優先株を50億ドル+5年以内にゴールドマンの普通株を1株115ドルで購入できるワラント50億ドル。GSの株価の推移を見ていただければ、この投資判断と条件がいかに優れたパフォーマンスを残したか分って頂けると思います。

「投資は、皆が貪欲なときは慎重に。恐怖に慄いているときは貪欲であれ」
"Be fearful when others are greedy, and be greedy when others are fearful "

彼の言うとおりですね。しかしこれを実行することは困難です。ましてや彼のような事業規模と資金規模になってもそれを実行し続けることは、世界が驚嘆するほどの所業となります。

バフェットはそのような投資の王道(邪道でも覇道でもなく)を数十年に渡って貫いて世界一の長者になったこともあり、経営者としても人格者としても多くの尊敬を集めています。

さらに2006年6月、彼は資産の85%にあたる約374億ドルを慈善財団に寄付すると発表しました。これはアメリカ史上最大の金額です。



僕は金融マンとして、彼の投資哲学から多くを学びました。顧客に提案するときも、値動きや相場主導の考え方を嫌い、バフェットのように企業価値の本質を見るビジョンを示しました。証券会社に入る以前に、大学生の頃から金融の世界を志していたのも、彼のような本物の投資家の哲学が胸に響いたからだったのだと思います。

しかし今では考えを異にしています。バフェットの栄光は彼の時代を背負ってこそであり、敬意を表したいと思うものの、新しい時代に生きる僕らにその哲学は全く通用しないと考えます。

資本主義を前提にした政治経済の枠組みが機能しなくなっているからです。お金をお金として扱うメカニズムを受け入れるまえに、お金という観念をもっと掘り下げ、人間の本質から生じる観念的現象として捉え直し、新たなお金の認識による新たな経済メカニズムを再構築すべきだと考えるからです。

お金は権力と同じで、増やすよりも使う方が難しく、その真価が問われる。世の中ではお金を増やすことを考えている人が大半だが、お金を(正しく)使うことを考えている人は少ない。 このことが社会を悪くしている重大な原因になっているのではないでしょうか。

社会を真に豊かにする鍵は、お金を増やすことではなく使うことである。 最も資本家として成功したウォーレン・バフェットの個人資産4兆円の寄付は、資本主義社会の大事件。ミスターマーケット(資本市場)をパートナーとして最も賢く付き合って世界中から尊敬されたバフェットすら、富を得た果てに寄付することしかできなかった。賢人バフェットの寄付・・・それが資本主義の限界ではないでしょうか。すなわち資本主義の重大な欠陥のひとつは、お金を使うしくみと概念の欠如ではないでしょうか。

参考文献:沖縄大学 沖縄観光論 2012 年後期 木曜3校時(1:00PM~)レジュメ 



ミスターマーケットにちなんで考えてみました。

ミスター消費者。
ミスター労働者。
ミスター経営者。
ミスター資本家。
ミスター国民。

私たちはお金を介在して、お金の流れに定義された枠組みと役割を維持すべく振舞い過ぎているのかもしれません。それがどのような観念を形成し、人の意識をどのように象り、どのような現実を創りだしてしまっているのか。もっとお金の使い方に注意深くあるべきではないでしょうか。

お金が回っている現象を見ているようで、基準である人間が回ってしまっているのではないか。

資本主義は本当によくできたシステムです。人類に誇るべき成果を出したことは疑いようがないとすら思っています。それゆえに人口増加中の社会は熱狂し、お金の扱い方が歪んいくのは当然の成り行きなのかもしれません。まだ歴史が浅いのですから、そのシステムの精神が成熟していないのは無理がありません。

もし現状を変えたいと思うのなら、重要なのは何故変えたいのかという問いの深さです。人間としての尊厳を与えるお金の使い方を、僕は金融機関を辞めた今も真剣に考え続けています。お金のあり方を人間の真実から捉え直したい。

私たちが、ミスター資本主義ではなく、人間として、幸せであるために。

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