2013年5月12日日曜日

村上春樹さんの精神と、真実であることを重んじて

村上春樹さんの公開インタビューが大きなニュースになりましたね。

僕は普段テレビをまったく見ないのですが、実家にいる時はついているので自然に見ます。村上さんの作品は、エッセイの「村上ラジオ」しか読んだことはありませんが、報道ステーションの村上春樹特集を見て、僕は彼のことが好きになりました。公開インタビューではこんなことを言っていたようです。


僕は必要があって自分の小説を読み返しても涙が流れたりすることはない。もっと引いています。僕の本を読んで「泣きました」という人がいるけれど、「笑いが止まりませんでした」と言ってくれる方がうれしい。悲しみというのはすごく個人的なことなんですね。個人的なところに密接につながっている。でも、笑いというのは、もっとジェネラル。僕の書くもので何が好きな要素かというと、ユーモアの感覚。笑ってしまう、ということがすごく好きなんです。ユーモアというのは笑うと人の心に広がる。悲しみは内向していく。まずは開かないと。なるべくユーモアをいろんなところにちりばめられればと考えている。

僕は結局、魂のネットワークのようなものをつくりたいと思うようになったんです。読者が僕の本を読んですごく共感するものがある、自分にもそういう経験があると思うと感応する。僕の物語に呼応して感応する。また別の読者がいて、僕の物語に感応するとネットワークができるのです。それが物語の力だと思います。

僕はごく普通の生活を送っている普通の人間なんです。地下鉄やバスに乗ってあちこち移動し、近所に買い物に行きます。そこで声をかけられると困ってしまう。もともとそういうのに向いていない。文章書くのが仕事なので。僕は絶滅危惧種の動物のようなんです。イリオモテヤマネコみたいな。そばに寄ったり触ったりしないでください。おびえてかみついたりするかもしれないので。

本当にうれしいのは、待って買ってくれる読者がいること。「今回はつまらなくてがっかりした。でも次も買います」みたいな人が大好きです。つまらないと思ってもらってもけっこう。僕自身は一生懸命書いているが、好みに合わないことはもちろんある。ただ、理解してほしいのは、本当に手抜きなしに書いている。もし今回の小説が合わないとしても、村上は一生懸命やっていると考えてもらえるとすごくうれしい。


最後のコメントがテレビで紹介されたとき結構グっときました。「あ、この人イイ感じ」と。特集では、印象的な発言が一つ一つ取りあげられ、原発と効率優先の社会に問いかけたスピーチも紹介されました。それを見て村上さんへの関心が高まってしまい、寝る前に妻と村上春樹談義で盛り上がったのですが、翌日になってもその思考が止まりませんでした。なぜ僕はグッときたのか。村上さんはなぜ、そういう読者が好きだと言ったのか。


たぶんですが、仕事のトータルをみて、作品ではなく人間への信頼を動機に購入する人からは、より愛を感じるからではないでしょうか。

作品が面白いかどうかに焦点を当てて、買うかどうかを決める人。面白くなかったという思いを正直に表明しながらも、内容を問わずに次回の購入意思を決めている人。関心を注ぐ対象が違います。作品なのか、村上春樹という作家なのか。

次にお金を使う姿勢が違います。次回作は自分にとって読む価値があるかどうか、迷いながら購入を決めるのか。作家を信頼して、ガッカリしても別に構わないという心境で既に決めているのか。後者のお金の流れには、書籍とエンターテイメントの流通という以上に、人間と人間の関係性があるような気もします。

村上さんは「手抜きをしないことが僕の誇り」と言っています。作品そのものへの評価や次回作への期待よりも、作家としての姿勢を感じとって信頼してくれる読者が沢山いること。それが何よりも喜ばしいと感じているのでしょうね。


そう。


村上春樹の作家精神を愛してくれる読者がいる。その作家冥利に尽きる幸せを感じながら、「大好きです」と言ったはずだったと思うんです。



それがです。


翌朝、めざましテレビで同じニュースをやっていて、見るわけです。昨晩の特集で気分が良かったから、もう一度見たくなって目を凝らす。

村上さんの発言内容がボードに書かれていて、それをアナウンサーが伝えます。


「今回面白くなくても次も買って欲しい。読み返して欲しい」


え?・・・っと、誰の発言?

村上さんはそんなこと言ってなかったよな。昨日のニュースが本当だよね。これ、ニュアンスが違うっていうレベルじゃないんですけど。だって、

「今回はつまらなくてがっかりした。でも次も買います」みたいな人が大好きです。

の趣旨が、「面白くなくても、次も買ってほしい」というお願い営業になってて、
その上「読み返してほしい」という、言ってもない媚びを付け加えられている・・・

この報道を作家の立場で見たら、どう思うだろうか。

妻も全く同じことを思ったようで、顔を合わせてすぐ意思疎通ができました。僕は言いました。

「全然内容が変わってて、ありえないよな。番組の制作側は、こんな仕事していて恥ずかしくないのだろうか。テレビに真っ当な報道を期待しているわけじゃないが、これは酷い」とうんぬんうんぬん・・・

と苛立ってしまった。シリアスというより、愚痴っぽく。
そのあとも、あまりにも気持ち悪かったので、正確な発言内容を確かめるためにネットで検索しました。

村上春樹さん (秘)トーク 2013年5月7日放送 7:06 - 7:11 フジテレビ

新聞社や通信社のテキスト記事を5つ見ましたが、どれも最初に認識した内容と同じでした。この報道だけがおかしかったのかもしれません。

なぜこんなことが起きたのだろうか。

おそらく取材班が会場の出口にて、聴衆に村上さんの発言を聞き出して、彼(女)が思い出しつつ解釈して答えたものを、なんとなくでさらに解釈してテキストに起こし、そのまま裏を取らずに事実として持ちかえって、採用されてボードに書き起こされて、村上春樹の発言として報道されてしまった――のかなぁ。真偽は分かりません。ただの僕の想像です。

世の中には、もっと突っ込むべきことが沢山ある。山ほどあります。こんな小さなことを目くじら立てて指摘するなんて御苦労さまと思われるかもしれません。でも、姿勢を問題にしているのであって、大きい小さいは関係ありません。

そもそも僕は批判を好みません。ましてブログに書くのは嫌です。問題があると思うときは、批判ではなく、現象を洞察して、人の役に立つ思考を提供し、鏡となるように問いかけることを心がけたいと思っています。

ただ今回は、真実を歪める報道が常態化しないようにとの自分の願いを重んじました。

公開インタビューの内容と、原発と効率社会への問いかけをした「非現実的な夢想家として」と題したスピーチ(NHKブログ 全文)をネットで読んで、僕は村上さんの生きる姿勢に敬意を覚えました。作家を生業としてエンターテイメントとユーモアを重んじながらも、社会問題には鋭く関心を持っていて、世界に向けて国際市民として発言できる機会を活かすことの高い公平性と合理性を自覚しながら、自らの真実を以て、正義ではなく個人の信念として、堂々と私たちに生き方を問いかける。心から尊敬すべき大人だと思います。

真実を重んじる村上さんを知って、その精神を尊く感じた一方で、発言を捻じ曲げて真実を軽視する報道には嫌悪感を感じました。テレビメディアにとっては普段通りの誤差の範囲内の出来事なのかは分かりませんが、とにかく気持ちの悪いコントラストを実感した自分がいます。


真実であること。

人間が人間社会を担う上で、最も大切にすべきことではないでしょうか。


かつてガンジーは言いました。
「世界中の貧しい人たちを救うのは、大量生産ではなく、大衆による生産である」

情報についても同じだと思う。重要なのは流れの量的効率ではなく、質的効率です。
「人間社会の真実を照らし出すのは、マスメディアではなく、大衆による情報の発信・精査・流通・蓄積である」

そう信じています。だから僕はブログを書いています。

村上さん。あなたの精神と、深く考える機会を与えてくれたことに感謝致します。
新作読ませて頂きますね。

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