2013年9月25日水曜日

自分らしくあること

 たとえば金曜日の夜、いつものように残業を終えて帰ろうとしたら、上司に呼び止められたとする。

「おい、○○くん。ちょっと一杯つきあえよ」

もちろん、あなたに断る権利はない。くたびれたスーツの中年男と一緒に、安っぽい居酒屋に連れ込まれる。そしてビールの泡を舐めながら、上司はとうとうと語り始めるのだ。

「いいか、俺が若いころにはなぁ・・・」
「いいか、人生ってのはなぁ・・・」

この上司は、たぶんブログを書いていない。

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そんな秀逸な書き出しで始まる素敵な記事があります。
みんなブログ書こうぜ

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誰だって自分の話を聞いて欲しいし、自分の人生を肯定してもらいたい。
すごいねって褒めてもらいたい。
しかし、人生を語れば語るほど、相手のテンションは下がっていく。
「この人のようになりたい!」と感じてもらえる可能性は低く、
「この人のようにはなるまい」と感じさせる場合がほとんどだ。
人生は、面と向かって語るもんじゃない。
まして、人生の教訓がどこかの本から借りてきた言葉ならばなおさらだ。
では、どこで語ればいいのか?

ブログだ。


(中略)


すべてのおっさんがくたびれたスーツを着ているわけではないし、
すべての人生論がつまらないわけでもない。
世の中には、自分の人生をおもしろおかしく語れる人がいる。
訊いてみれば、そういう人はたいていライターだったり、出版社の編集部で働いていたり・・・
情報発信する訓練を普段から積んでいる人だ。
そしてブログは、職業も立場も問わない情報発信の場だ。言語化の訓練を積める場だ。
ブログを書き続けていれば、「いくつになっても面白い人」になれる。
ブログを書き続けていれば、思考力を深められる。
人生を、他者の模倣ではなく、自分のものにできる。少なくとも私はそう信じている。

ブログを書いていれば、たぶん、あなたはあなたらしくいられる。
だから、みんなブログ書こうぜ。
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かなり共感しました。きっとそうですよ。

人生は面と向かって語るもんじゃない。

でも、人生ほど伝えがいのあるもんはない。

だからブログ。(機会があれば面と向かってそれなりに語りますけどね笑)


訪れる読み手の意志にゆだねて、好きに解釈してもらって結構で、
ご自由に捨てるなり活用してくれればいいと思いながら、
自分の信じる世界を思いっきり語らせてもらう。

重んじていることを、感じていることを、伝えたいことを。
つまり何者であるかの粋を、分かち合いたいから。


ブログを書くと自分らしくいられると言いますが、
そもそも、自分らしいとはどういうことか。
そして、自分らしくいられないのは何故か。


人を傷つける事に目を伏せるけど
優しさを口にすれば人は皆傷ついてゆく


僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで―尾崎豊

たしかに負けられないと思う時はあります。しかし、自分であることが勝ち負けによって左右されると信じ込んでいる時点で上手くいきません。

なぜ「負けられないこと」が健全ではないほど危機的に重要なってしまうのか?

人が最も怖れるのは物理的な死ではなく、
人間関係における存在意義の喪失だから。

自分の存在価値を無条件に信頼できず、
自分の存在意義を他者の認識に依存する心を、存在不安と僕は呼んでいます。

人々がお金や権威ある立場に執着するのは、自己中心的な欲望ではありません。
野心も保身も、動機の源泉は存在不安にあります。

お金の欠乏を怖れるのは何故か。
組織のために自分を犠牲にして勝たねばならないのは何故か。
殺し合って死ぬことよりも非国民と言われることを怖れるの何故か。

子供を守るため、妻に不安を与えないため、自分を信じてくれる従業員を守るため。
彼らの尊厳を守るため。
彼らを守るという自分の人間的存在価値を、死力を尽くして守らねばならないから。

「ねばならない」と言いましたが、
結局守りたいのは、自分の存在価値なのです。

重んじているものを「脅威」から守らねば、自分に存在価値はない。実感できない。
そのような執着は、怖れの世界観を生きる以上は必然です。

存在不安を抱えている限り、
どれほど豊かになっても何かに勝ち続けなければなりません。

だから・・・自分の真実を犠牲にします。素朴な本質を犠牲にします。
嘘や環境破壊や他人の犠牲を、必要悪として正当化します。

おかしいと分かっている立場の理屈、暗黙の了解、常識的観念、時代に流行する社会幻想。大人は角が立たぬようにと放置しっぱなしです。それらがどれほど歪んだ思い込みを与え、自分に嘘をつくことを当たり前にし、お互いに心を病ませる結果になっていようとも、大切なものを守るためといって加担しています。自分の存在価値を守るためではないのですか?と言いたくなるほど都合のよい解釈で。こないだブログに書いた、オリンピック招致のプレゼンとその反応とかまさにそう。もっとも、自分に嘘をついているので無自覚であるかも知れませんが。

たとえ自覚がなかろうと、在り方のメッセージとして強烈に伝搬します。あぁ、立場の利益のために手段を選ばない世の中なんだなーと若者たちは無意識に適応していくわけです。言っていることとやっていることの違う不誠実な大人の姿を観て、それを不誠実ではなくて愛であると解釈するための理屈(正当性や必要性)を取り入れていきます。それが腑に落ちずに嫌だから、自分らしくあるためにオレは野心に生きるぜ、となる。それを諦めたとき、都合のよい観念と解釈を肯定して保身に生きるか、となる。

これもプロセスとしてしょうがありません。
まずは人の心を理解するまで、真実を見破るまで、
社会のど真ん中に飛び込んで、我慢して向きあって飲み込んで、
見よう見まねで「大人」であろうとして、
「大人」の表面を信じて、分かち合うことから始めてみるほかありません。

もはや分かち合えない!と諦めたとき。
つまり「若者」から「大人」になるとき。

自分らしくあるためには・・・
もっともっと勝ち続けなければならないのだと思えてきます。
出過ぎた杭は打たれない、という野心と自己実現の夢を膨らませます。
そういう意識でないと、今の自分に存在価値を実感できなくなってしまったからです。

それを馬鹿らしいとか、自分には向かないといって手放した人達も、
野心的な生き方に徹する人を支えます。どこか憧れたりもしています。

野心と保身は、存在不安を抱えて生きる人たちが、
自分らしくあることを求めた必然的な結果ではないでしょうか。
実は互いに支え合う関係です。と、僕には見えてしまいます。


優しさを口にすれば人は皆傷ついてゆく

自己犠牲は、純粋な思いやりではありません。
立場(他者の意味づけ)と同化した上での思いやりです。
そこには存在不安を避けるという本当の動機が隠されています。

自分を偽ってまで取引関係ゲームに応じて、
重んじるものを利害で守るほどに、無力感と無価値感を味わいます。
無条件の信頼と無償の愛を、信じられなくなっていきます。
存在不安は増していきます。

怖れを動機とした人間関係と行動が実現するものなど、儚く脆い。
結局自分を裏切るものは、他者も傷つける結果となります。

自分を偽らずに大切にすることを通じてしか、
他者を大切にすることはできないと気付くことになります。


漫画家矢沢あいさんはNANAでこの真理を描いています。
こんな台詞があります。

「大事なものを犠牲にしてまで何かを手にしても、人は幸せには なれないんですね」―倉田


大事なことを守るという意識でありながら、あるがままの自分と他者を傷つけ、自由と尊厳を奪いあっていた矛盾。分かち合うよりも、偽り合うことを積み上げてしまった現実。
そんな状況は、自分のエゴが創りだしていたのだと、いずれ認めざるを得なくなります。
他者の認識に自尊心を依存し、自分に嘘をついてしまった愚かさに気付き、
絶望したそのあとに、真実への理解が腑に落ちるのではないでしょうか。

正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで


存在意義は、外側のものに勝つか負けるかという小さなものではなかった。
外の脅威を信じ込ませたがる家族愛や愛国心は、
自分の存在価値を守る為の執着と依存であった。

誇りは、自分の怖れとエゴに、向き合うことにあった。

与えられた脅威と正義に反応した自己犠牲ではなく、
あるがままを信頼しながら、人の嘘と弱さを見抜きながら、
自らの心の真実を軸にして献身すること。

それこそ自分らしくあることが人の為でもあるという喜びです。



自分らしくいるための合理的行動とは、自分との対話です。
自分に向き合うことに最も合理的な営みの一つが、
おそらく、実名でブログを書き続けることです。

むっつりと独り静かにオープンに。

湧きあがる想いに純粋に向き合うこと。

自分は何者であるかを描くこと。

自分の信じる世界と対峙すること。

それらが、人としての深みと力強さを与えてくれるのだと思います。



どんなときも どんなときも 僕が僕らしくあるために
「好きなモノは好き!」と言えるきもち 抱きしめてたい―槇原敬之

自分の気持ちに嘘をついて、自分を見失うこともあります。
好きなモノを好きと、子供のように言えないのは、
大人には言えないなりの理由があるからです。
それもやはり、自分の中の大切な何かを守るためです。

本当に好きなものを好きと言えないのは何故か。
本当に嫌いなものを嫌いと言えないのは何故か。
自分の正直な思いから逃げている理由は何なのか。

奥底に、最も重んじている価値があるはずです。
自分らしくあるためには、
自分の信念体系のトップにある項目と向き合わねばなりません。
二番目以下の価値ではなく、一番重んじている価値が世界観を司っています。
それが変われば、二番目以下のすべてが変わります。


僕のブログは、「好きなものは好きと言いたい」という衝動ではありません。

好き嫌いの奥にある、
それぞれの願いを本気で分かち合うという意思です。

人の、純粋で素朴な幸せへの願いが、
互いに分かち合えないのはどうしてだろうか。
素朴な願いが素朴に実現しないのはどうしてだろうか。

ひょっとしてこうだからじゃないかな、と僕は感じていて、
こう考えているんだけど、あなたはどう思う?という問いかけです。

一番重んじているモノを、一番重んじているのだと言い、
それが自分ですと表現して、問うているだけです。



重んじているのは、結果ではありません。
目的というほど、正当性や必要性を求めてはいません。

願いです。

真実の願い。

それを分かち合いたい。
そこから始めたい。それが全てだとも思ってる。

僕はその情熱を、抱きしめています。




ブログの愉しさは、
自分を知り、自分に気付き、自分を実感する喜びです。

それは同時に、
他者と自分を分かち合うことであり、
世界と自己を分かち合うことです。

自分らしくある喜びとは、分かち合う喜びと同じ。


結局何が言いたいかというと、

「だから、みんなブログ書こうぜ」ってことです。

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