2013年11月2日土曜日

証券会社を辞めた理由

「証券会社 志望動機」と検索して、このブログに来られる方が結構います。

証券会社を志望した理由

就活中の大学生なのかもしれませんね。
面接で志望動機は必ず聞かれますから、参考になる文章を探していたのでしょう。

続きを書いてみます。

そこで何を思い、なぜ辞めたのか。


以下は、当時から今に至るまでを振り返って語った私のツイートです。

証券営業をしていた頃。支店で一番出来る先輩に聞いた。「自分が本当に良いと思えない金融商品を、どうやって勧められるのですか?それとも、上司の意向とズレがあっても自分が素晴らしいと信じられるものだけにこだわっているのですか?」・・・答え。「良いと信じ込むんだよ」

その人は責任感が強く、家族思いで、後輩思いで、尊敬できる優しい先輩だったから、悲しくなった。自分の仕事にプライドを持つとは、プロとは、そういうことなのか。そうじゃないんじゃないか。俺が甘いだけなのか。社会に、会社に尽くすとはそういうことなのか。そう悩んだ時期もあった。

セールスで結果を残せない奴が何を言えるのか?その先輩ですら、そうやって歯を食いしばってやっているのに。そう思って、セールス技術とマインドを磨くためにセミナーに行ったり、本やDVDを買ったこともあった。

金融の本質、経営の王道、社会の健全なビジョン、自分のありたい姿・・・それらも追求し続けていた。プロとしてセールス力を向上させることと、自分の心からの願いの追求。そのギャップは乖離していくばかり。

バフェットの言葉がたまに突っ込んでくる。 「やる価値のないことを、いくら上手くやっても価値はないのだ」 先輩のようには無理だ。先輩のやり方ではまるで情熱を持てない。思い込めるか!結局、迷いの果てに自分に正直になる方向しかないという確信を深めた。心の赴くまま、手さぐりで本質を追求。

魂を揺さぶられるほど本物を感じた人に会いに行った。話を聞くために沖縄まで。本も読んだ。二宮金次郎、リカルドセムラー、神との対話、物理学など。地域の経済人が集まる倫理法人会、ロータリークラブに支援された青年組織のローターアクトクラブに入った。多くの知識・人に出会って見識を磨いた。

経済を、地域社会を、人の心が象っているというリアリティが深まる。知識主導で、政治経済学部で習った社会学の世界観も、金融の専門書と現場で覚えた資本主義経済の世界観も、偏った観念的な見方だった。怖れることはない。心を持った人間同士の社会。ビジネスを戦略ゲーム的に語る愚かさに気付いた。

そんな中で思うような結果は出なかったが、スタンスに迷いが消えていたので精神的には健全で前向きだった。現場から疎まれたのか、人事に評価されたのかは分からないが、本社に異動が決まる。本社の人達は実力を買われた中途採用が多いし、新卒入社組は特に期待されたエリート。

プロフェッショナル意識と自負が強い。話を聞いていても、メールを読んでいても、実にスマートだ。機関投資家の為替・金利・オプション取引、取引所とのやり取り。分からないことは多い。本社を知り、ここで専門性を身につけ、英語を学んで海外に行くのも面白い。そう思ったこともあった。

結局数カ月でやめることになる。どうしても目の前の業務に情熱が持てなかったのだ。持とうとするほど、金融の本質を学ぶことの方への衝動に駆られた。葛藤は異動前よりも深刻になった。本質への衝動の焦点が、自分の在り方、そして生き方になったときに決壊した。自分を偽ることは出来ないと悟った。

そして自然栽培農産物の流通卸、宅配、販売、レストラン事業の会社に転職して今に至る。振り返ってみて思う。迷いも出会いも絶望も、全てが必然であったということだ。怖れを手放して自分に正直に生きることによって、それらのドットは繋がっていき、精神が再生される。人生のビジョンが見え始める。

そしてそれは生まれ変わったような、もともとそうであった自分に還ったという感覚。いろんな観念、意味づけが剥がれ落ちて、意識が明晰になった。曇りなく物事を観ることができるようになったのが分かる。自分の弱さ(観念との同化)と向き合い続けて、丁度1年を過ぎた辺りからだろう。

自分に起こった現象を知るために、心理学や悟りやスピリチュアルについても一通り学んだ。そうして人間という存在に対する理解も深まった。人生の決算となる今年。20代最後。これまでの全てに感謝し、どんどん手放していこうと、分かち合っていこうと思う。

(Twitter 2013/9/7より)

これを読んで、どのように感じるかは読み手の自由です。
しかし誤解のないように補足します。


まず、これは私個人が経験した事実と解釈でしかないということ。
決してそれ以上ではありません。証券営業の仕事は嘘が必要である、という話では全くないし、金融とは誰かに嘘をつかねばならない職業だ、と主張したいわけでもありません。

ただ千明という個人にとっては、既存の金融の世界観を前提する限り、自分の信念に嘘をつかねば成り立たない仕事であるという結論に至った、という事実を伝えているだけです。その経験を、ブログを通じて率直に分かち合うことを意図しているに過ぎません。既存の金融とは何か?という認識が違えば、あるいは、人それぞれの抱いている信念が異なれば、まったく成り立つことのない事実と解釈です。あくまで私という人間の主観的なリアリティありきで語っています。



次に、感謝しているということ。
辞める前も、辞めた後もですが、携わった仕事にも、組織とその人間関係にも、金融業界にも、恨みつらみは一切ありません。

神戸支店。金沢支店。そしてデリバティブ業務室。そこで出会った人達は皆、責任感をもって仕事に取り組んでいる方ばかりでした。確かに私は、既存の金融は大いに問題であると思いますが、何もそこに悪人がいるわけでも、悪い心が蔓延っているわけでもありません。それぞれが与えられた立場と関係性に精いっぱいに適応し、各々の価値観に照らし合わせ、自分の幸せと社会貢献を両立させようと頑張っています。それはどこの職場でも同じ光景であり、その当たり前の事実を十分に理解した上で私は金融について言及しています。

最終的に、信じる世界観が私と違っていた。それだけです。
非難すべきことなど一つもありません。

だから、縁あってお世話になり、育ててくれたみずほ証券には感謝しています。入って良かったと心から思いますし、ここだからこそ、自分の本当にやりたいことをやらせてもらえたのだと思っています。

それは、ずっと小さい頃から、無意識に自分が求めてやまなかったことです。

自分の頭と心で、
この生きる世界を、人間社会の真実を、腑に落とすこと。


さらにもう一つ。新たな時代の金融が見えたということ。

私は金融が嫌いになったわけではありません。本当に幸福に合理的な、そして持続可能な、人間の真実に基づいた金融とは何だろうか。その答えを見出せただけです。

そのビジョンの一つが、江戸後期に600以上の農村に経済再生のために施した、二宮金次郎の報徳金です。さらに、現代社会において即実践可能であり汎用性を持っているのが、樋口耕太郎さんが試みた次世代援農プロジェクトです。

しかしこの真髄は、
人間関係の向き合い方であり、事業のあり方であり、共同体のあり方であり、
それを総合する個人の生き方そのものでした。

まずもって既存の金融が強いる資本の論理では実現不可能な合理性です。

これを確信したとき、あゆむべき道が途絶えました。絶望と同時に、依存心を断ち切って、自らの足で立ちあがったら、新たな道のスタートラインに立っていました。

次の社会を築く道を歩もう。
その決意によって、一つのロールモデルが消えました。

最大の資本家。最も偉大な投資家。
資本主義経済の王道を偽らずに貫いたオハマの賢人、ウォーレン・バフェットです。

私は証券営業・資産運用コンサルティングにおいて、企業価値と経営する人物を重んじるバフェットの投資哲学を最も参考にしていました。とにかく分かりやすく、その投資の本質と心と社会的意義を伝えたいと望んだ。お客さんには投機ではなく、投資の王道を以て、利益をあげて欲しかった。バフェットの投資こそが、資本主義が機能する正当な根拠であるように考えていました。

だからこだわった。仕事のプライドはそこにあった。
大切な資産を預かって、公共性と社会貢献を謳いながら、運用のプロとしての対価を手数料として貰うのであれば・・・自分自身でバリュエーション(企業価値評価)が出来なきゃ駄目だろう。胸を張って証券マンであるために、専門的な分析が出来るようになるための合宿セミナーを受けにも行きました。30万近いお金を払って。バフェットを敬愛している板倉雄一郎さんという方が主催していたものです。彼のブログと書籍は大学生の頃から読んでいました。

金融業界において志を高く抱いてる人なら、バフェットの投資哲学にこだわり続けた私の想いは伝わるかもしれませんね。

しかし、それほどの思いもさっぱり消えた。

向き合うべき問題は外にはなかった。
いかに理想の証券金融のあり方に貢献するかではない。


自分は人間としてどうありたいのか。
人間社会とどう向き合いたいのか。
偽らずに今を生きているのか。
自分は何者であろうとしているのか。

自分の何を信じるのか。
世界の何を信じるのか。

信じたそれと、どう対峙していくのか。

自分の心と、人の心。
それにどのように向き合うのか。

それは何故か。

愛か。怖れか。


本質への衝動の焦点が、自分の在り方、そして生き方になったときに決壊した。自分を偽ることは出来ないと悟った。


上司に告げました。

「この会社、そして金融業界において、働く意味を見出せなくなりました」




・・・この人は何を言っているのだろう?と不思議に思われる方もいるかも知れません。

何をそこまで考えすぎているの??
もっと気楽に考えれば?
割り切れないの?不器用なの?


普段は人一倍に気楽ですよ。
しかし、自分のあり方の意味についてだけは、考えることを辞められません。

お金という観念が、人の意識と行動とネットワークに作用することによって、人の尊厳を失わせている膨大な可能性を理解したとき。

人の価値観・世界観にどのように作用しているのかを想像して、肌感覚で、自分のやっていることの真の意味合いを自覚したとき。

必死で掴んでいたものを、逆に、思いっきり手放すしかできませんでした。


もう一度言います。

何度振り返っても、悪い人などいませんでした。日本の資本主義経済を支えるグローバルな大手金融会社。支店も本社も、私が見る限り、一人も責めるべき悪人などいませんでした。社会が健全に機能していないのは、金融を担う人のせいではありません。決して道徳心や公共心がないのではありません。金融業を含めた共同体のメンバーの大半の人が、それらを制限する観念に望んで同化するせいです。

不安と不信感から、消費者・労働者・資本家・経営者・国民として、割り切って自分に嘘をついて振舞うこと。それらの立場に押し込めるように、他者に嘘をつかせてしまうこと。そのような私たち一人ひとりの矛盾した意識の集積が問題となって顕れるのではないでしょうか。金融がもたらす現実とは、私たちのお金への信念と行動が、過不足なく表現された結果に過ぎません。


地獄への道は善意で敷き詰められている。


その言葉を幾度と思います。

たとえ善意であろうとも、自身の怖れを動機にしている意識と行動のあり方であるのなら、社会は地獄へと望んで向かっていくということです。

それが家族愛でも、愛社精神でも、愛国心でも、規模に関係なく同じ。
怖れと不信の善意が、善意を道連れていく。

だからまず、自分の怖れを取り除くこと。
そうして自立した上で、他者の怖れを取り除くこと。

怖れではなく、愛を動機とする個の意識と行動。
それが重心にあって、初めて、本物の金融がある。
本物の企業経営がある。本物の政治経済の共同体がある。

そのような真実を心で理解したから、もう続けることが出来なくなりました。

いや続け方が変わったのです。次世代のそれへと。

だから私は証券会社を辞めました。


***


今、証券会社を志望している方。
今、そこで働いている方。

私はまったく否定しません。

自分の信念に、誇らしく真っすぐに突き進んでほしいと願っています。
ただその善意と行動の起点が、怖れではなく、信頼であり続けてほしいと思います。

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